『間』の話
コンサートで同じピアノを
聴きに行くのでも、目的が違う。
こんな傾向はあると思います。↓
ジャズ→誰が演奏するのか
クラシック→何を演奏するのか
(クラシックも、曲ではなくて、
演奏者目当てで行くことはもちろんありますが。
発表会とかね。)
確かにその曲を聴きたいけど
誰が演奏しても良い、というわけではない。
曲は知っている。
知っているし、
CDでも聴けるけど
YouTubeでも見られるけど
感動したい~
五感で、感じたい~!
(私の主観では)クラシックで、大切なのは
一つの曲を通して伝わる、見えてくる
作曲家と演奏家のバランス。
言い換えれば(弾き手として)
知識と感情(かな?)
様式表現と自己表現のバランス。(かな?)
楽譜はココにあるので、
作曲家からのメッセージがココにあるので
それは伝え切りたい!
だけど伝書鳩の役割で
終わることはできない。
聴きたい、と思わせる演奏家は、
このバランスを取ることのプロフェッショナル。
ある「制限」の中での自由=「間」
「間」は音楽以外のものにもあります。
もちろん。
ダンスには振り付や舞台空間の制限の中での「間」
書にはテキストの制限の中での「間」
絵画はキャンバスの、ツールの制限の中での「間」
彫刻にだって「間」はあるのです。
お料理、ファッション、研究、映画、設計、文章、
スポーツでも数学でも、すべてのものに「間」がある。
スペースや時間の制限がある中で表現するのは同じ。
逆にいうと、作品を通して、
制限されている時空を表現している。
技術は問題じゃない。
厳しい表現をすれば、あって然り。
だけど、なくても感動を呼ぶことはできる。
技術を伝えてはいけない。
自由表現の「間」をどれだけ
持てるか。作れるか。
その「間」を
どんな色にするか、
どんな味にするか、
どんな形状にするか、
香りにするか、
触感にするか、
温度にするのか、、、
楽しい。
こりゃたまらん。
こりゃたまらん、ってとこまで
伝わるといいな。
生徒ちゃんたちにも
こりゃたまらん、を
経験してほしい。
この制限を取っ払いたくなった時には
ジャズ、作曲、、、
他のジャンルに羽ばたいていくのかな。
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